本当の自分

“孤独”と“独り”

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ゆっくり

ほんと、ゆっくり

めちゃめちゃゆっくり 笑

音読と対話を愉しんでいる私 Osho「究極の旅」という本




そうそう、本の台紙をブログやSNSなどに勝手に載せてはいけないようですね

自分で買った本の写真を撮って載せることもあまり宜しくないようです

著作権などね、私ってそういうの疎いから

本の宣伝にもなると思い勝手な“思い込み”が発生しておりました

調べたら、一部内容を載せる時には

ここから、ここまでが内容の一部であるとはっきり表すこと

そして感想などをきちんと加えることが大切なようです




それで、今日のブログのタイトルは “孤独”と“独り” なんですが

これについても、昨夜音読したところで納得する文章があり

書いてみようと思います



何日か前にも書いたと思いますが

私はずっと独り

結婚しているし、家族もいるし、でも独り暮らしが多い

あまりにも、あまりにも多い

茨城県に来てからも夫は単身赴任生活を送っています

私は

もう慣れっこで

そしてこの状況に対して

私は~贅沢な生活をさせてもらっているよなぁ~と

感謝しています

なぜ私は孤独ではないのか?

なぜ私は独りを贅沢な暮らしだと感謝しているのか

その変のところも「本気モードで目を覚ましていくには」で書いています




Osho

孤独は悲しさでもある
独りは悲しくない

孤独というのはひとつの不完全さの感覚だ
あなたは誰かを必要としているのに
その必要としている人が得られない
孤独というのは
その中に何の光もない暗闇だ
誰かがやって来て
それを光で照らしてくれるのを待ちに待っているくら~い家

“独り”というのは“孤独”とは違う
独りというのはあなたが完全だという意味だ
誰も必要ない
あなたは満ち足りている




この内容は究極すぎて、なかなか理解ができないのかもしれません


去年のね、えーと2月くらいからだったかな

まる3か月 右耳が聴こえなくなったのね

普通はさ、大騒ぎでしょ

病院に行くよね


私はそんなときにも安心しきっている

深刻ではない

なぜ深刻でない? そこにもあまり意識が触れない

そう、完全に安心しきっている

変だよね (*^▽^*)

変だけど、それこそ究極なんだよ

深いところで分かっているわけ

大丈夫だってさ


そして自然と聴こえるようになった

完全に右耳は復活!!



逆にね、もしもこの肉体になにか深刻な事が起きていたなら

それもきっと私はわかるんだと思う

そしたら病院に行くよ!


独り

独りでもひとりじゃない

私には根っこがある

根っこと繋がっている

根っこが本当の私

この根っこは一なる神と繋がっている

一なる神へと拡がっている

大好きな、大好きな神さま。。。




究極の旅という本

Oshoは昔のインドの聖者たちとは一味違う感覚で

いまに適用できる悟りを教えてくれている

結局のところね

私たちはいつかは悟るんだよ

“本当の私とは”をね

それはある日突然やってくる


あなたに準備ができていようと、できていまいと?なのかもしれない

準備ができていなかったなら

悟った後にゆっくり意識が浸透していくんだと思う

準備ができていたなら

どんな形であれ探究を愉しんでいたなら

それはあまりにも自然にあなたの意識に

すでに浸透していたことを知る

意味を知らずしても

悟ればわかる

悟りは人の数だけそのプロセスは違う

だから誰かがあなたを悟らせるなんてことはできないよ

自分でね、やるんだね

自分で求めていくんだね

悟りというのには

段階があるよ

熟成なのね

悟る前であっても、悟った後であっても

知らず知らずのうちに熟成は進んで行くよ

だから誰かと自分の状況を比べても仕方ない

役に立たない

自分の小さな変化、自分の状態に気づけるのはあなた自身

自分で自分の変化に驚かされる

そういうものだよ



でも、悟った人の意識に(エネルギーに)触れること

それはすごく役に立つと思う



悟り、目覚め

何も知らずして突然やってきたなら

その後で、ゆっくりちゃんと準備が整うから

誰が“それ”を導いていると思ってるの?

大丈夫さ!!(*^▽^*)



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