神さま

大いなる探求者

全体とは

なんて、なんて自由なんでしょう

なんて、なんて楽ちんなんでしょう


インナーチャイルドは“からだ”に記憶されているのであって

私たちは、それを知らない

知っているなんて言っちゃだめ

知らないでしょ

毎瞬現れては消える、新しい私たち

いつもいつもピュアな私たちなのに

どうして子どもの頃の事を憶えていると言える?

それは“からだ”に記憶された出来事

私たちは“からだ”ではない


でも、これまでいっぱい「傷ついて来て」

その傷がいまもあなたを傷つけていると思っているのなら

子供の頃のあなたがいまも傷ついたまま

身体の中のどこかに居ると思っているのなら

それには深い癒しが必要なのかもしれません


それは、言葉にするのなら

神癒というものです

関連記事を読んでみて下さい

ここで出てくる「自己」というのが

今となっては「真我の先っぽ」であるということです



全体=真我

全体とは神さまのからだ・・・


真我とは神さまの中の個人的を創りだすエネルギー

意識です

絶対意識の中の意識です

量で言えばわかり易いのかもしれません

神さまがすべての全てです

その全部の中のバケツ一杯分の意識が真我だとすると

私たち真我の先っぽはというとティースプーン一杯分くらいでしょうか

私たちは神さまのほんのちょっと意識なのです

その大元、真我が本当の私です♡と言っているのです

勿論、これは私独特の伝え方です

ですから、結局のところ

神さましか実在ではありません

すべての全ては神さまの中から現れているのです

いつもいつも、私たちは神さまに包み込まれているのです

私たちの内側の声をちゃんと聴いていますよ


これを踏まえて

私たちは全体だ

私たちは元々個人ではない

いつも私は全てであり

全てはいつも私だった

無条件の愛、自由、楽ちん、きらきら…

私たちはいつもこうだった


わかり易くないですか?


無条件の愛、自由、楽ちん、きらきら…

この、きらきらは

なぜきらきらなのかというと

いつも、私はリアルできらきらを見ているからなんです

このきらきらは、全体から見せられているものであり

全体に、全体として在る「在るである者たち」のアピールです♡

私の解釈で

それは精霊の時もある

在るである者たちの時もある

そして、聖霊の時もあるのかもしれません…


部屋の中がピカっと光るんです

天気の良い日、レースのカーテンがきらきら光るんです

カフェでピカッと光るんです

その光は深い美しい藍色であったりもしますが

ほとんどは白に近い光です


昨日、ふと2年前のブログを読んでみたんです

私、真我の先っぽは

2年前の私など、いない事を知っています

ずーっと、ずっと歩いてきたんだからね

神さまと一緒にあるがままに…



歩くとは

いまここの私からの後ろ?過去の私はいないという事なのです

「いまここ」の私しかいないのだ!と、いう事なのです



探求の道すがらに

色々な人の動画を視聴したり、沢山の本を読んだり

一年前に視聴したはずのその動画を

あの時私は意味がわからずスルーしていた

なのに、いま、わかる

あまりにも“わかる”という経験

これは、神さまがいまここまで連れてきてくれたからなんですね


2年前、神さまは

ゆっくり進むって

私に仰ったんですね

まさに、ゆっくり歩いて来たからこそ

神さまが散りばめてくれたエッセンスを逃さず(おそらく)

だから、ちゃんと気づいて来れたんです


そうすると

一年前には訳がわからずスルーしていた動画や本の内容が

手に取るように「わかる」という事が起こる

それは

「神さまと」「その事と」「真我の先っぽが」一直線に繋がって

「一歩」として刻まれたという事

この一歩は、もう終わった過去に戻る事はないのです


ここまで来たからです


いまわからなくても

神さまと一緒にあるがままに一歩一歩歩み進めていけば

探求者は必ずこのような体験をするものです

だから、人は探究をやめられないのです


探究は苦しい?

その苦しい探究を包み込んでいる

大いなる力、大いなる智慧、大いなる叡智に気づいて!

それは、いまここに在るんです

いつもいつも

いまここに…



昨日、日中に夫と2人でバスに揺られながら

約40分

鹿児島のイオンモールまで行ってみました!

バスに乗る前に、実は大きな気づきが起きて

ものすごーく、大きな一歩が成された感覚になっていたんですね

急にバスの中で恩寵のような愛に包まれ、それが溢れてきてしまって

涙がぽろぽろ溢れてきました

嬉しかった

なんていうのか

ずっと神さまは私と一緒にいて下さり

私をここまで連れて来てくださった…

有難いと思った

本当に嬉しかった…
 

ふと気づくと

この恩寵はさらさらと私の手の平から零れ落ち

消えて行きました

あの時の余韻に浸りたいのに

既に消えています

そう、何も所有はできないのだという事なんですね


文字に起こせばこうやって

あの時の恩寵を言葉にする事はできるけど

でもあの時の、祝福と歓びと愛と感謝

あの至福はあの時だけのものだった


あ…本当に、所有はできないんだなと納得

いまここを本気で大切にしなければという想いが込み上げて来ました

昔は所有できた恩寵

昔は何度も思い出して余韻に浸る事ができた恩寵

なぜ、それが出来なくなってしまったんだろう?


そう、どうやらこういう事らしい

全体に移行したから


思考が消えていくのも

心は(自我は)表面的で、それは本当は無いものであるという事も

からだは私ではない、頭の中は他人様

ぜんぶぜんぶ

全体に移行したからなんですね

これも一歩一歩でした


いまもここに在る

“これ”全体

いつもこれだった

これじゃない事なんて一度もなかった


今日のブログも

かなりのちんぷんかんぷん 笑

あなたが探求者であるのなら

神さまと一緒にあるがまま

いつか、このちんぷんかんぷんなブログが

わかる!!

そんな日が来ますように・・・


そしてすでにわかる!!というあなた

悟りとか、目覚めとか、気づきとか、真我実現とか

概念ではない

神さまがちりばめてくれているエッセンスを逃すことなく味わい尽くすという

神さまと一緒にあるがまま・・・

私たちは大いなる探求者ですもんね♡


孫のCocoちゃんは

一歳の頃に「仏陀」が口癖だった時期がありました

今日のサムネイルの写真はその当時の写真なんですが

私にはこの写真が仏陀様に見えてしまう 笑

そんなCocoちゃん

ある外国人の男の子の写真を見て

ばーたん、ばーたんと言います♪

ばーたんとは私の事なんですが

Cocoちゃんの目には

その外国人の男の子が私に見えるのです

前世の記憶?

かもしれませんね

在るである者としての記憶なんだと思います

私には全く前世の記憶はありませんが(๑>◡<๑)


不思議な事、面白い事は沢山あります

でも、でもね、大事なのは「いまここ」だけなんだよね


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