昨日書いたブログで
“いまここ”で(バスの中で)恩寵が起きて
それはすぐに手の平から零れ落ちて行った
消えてしまったと書きました
あんなにポロポロと涙が流れて来たのに
ハートがきゅ~~~んとして胸がいっぱいになったのに
その涙もあっという間に乾き
何も無かったかのように私は在った
余韻すらなかった
目覚めて、全体に以降すると
“いまここ”しかなくなるのですね
思考は消えてしまうし、マインドに捉われないし、心も見ると消えてしまう
つまり
その時の“いまここ”の恩寵はそこにずっとあり続けていて
それは永遠に宇宙に記憶されているのだけれど
だけれども私のほうが、その時の“いまここ”に居られなくなって
私が恩寵から離れて行った
“いまここ”が勝手に私の所にやって来て、勝手に去っていくのではなくて
私が“いまここ”から新しいピュアな“いまここ”へとシフトする
それは自動的である!ということ
目覚める前というのは
宇宙に記憶されている過去へと何度も何度も戻っては
同じような経験をすることがあると思います
それはマインドがそれを掴んで離さないからです
或いは宇宙が、学びとしてそこを超えていけるようにと
何度も何度も同じような体験をさせるということもあるでしょう
それは宇宙の愛です
これが輪廻転生というものなのかもしれません
しかし魂から目覚めると、そのようなことができなくなり
常に“いまここ”へと自動的にシフトするようになります
なってしまいます!と言った方が自然なのかも
人は素晴らしい体験を何度も思い出して余韻に浸りたいものですからね
良いことがあっても
その時の“いまここ”の「良いこと」に留まることができず
「良いこと」から“いまここ”へと常に常にピュアな新しい私へと
自動的に・・・
そうなっている!ということ
苦しみも同じ
「苦しみ」から“いまここ”へと常に常にピュアな新しい私へと
自動的にシフトしている
だから掴むな!!放っておけ!!
ってこと♡
自動的にそうなっている
そうなってしまう
これが本当の私たちなのであり
決して何も掴めない保有できないということ
一瞬一瞬が新しいのだということ
掴むことができるもの、それは実在ではないということ
「掴む」、ということは
掴もうとする「それに」気づいている者がいるんですね
その気づいている者というのがマインドなのであり自我であるということ
魂から目覚めた真我の先っぽは“いまここ”でのピュアな体験を
バンっ!と初めの意識で捉え、それはその時で完結してしまい保有できないのです
真我が体験として現れるものは決して掴めません
“いまここ”でしか、体験に気づけません!
だから、目覚めると“いまここ”にしかいられないのです
“いまここ”にいまの完璧があるということなのです
いつものことですが
これを書きながら、私も
へぇー、へぇーって
納得させられています 笑
ここで書いているブログはSatokoという個人が書いているのではなく
自動書記のようなものです
私もこのブログから沢山気づきを得ています
ブログを書きながら、私と私がお喋りしながら
なるほど、なるほど、なるほどねぇー♡と言いながら
ブログを綴っています
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