真我

神の御心のままに…

キレイ3



いつだったか、ラマナちゃん(ラマナ・マハルシ)の本を読むのは

「今からなのかもしれない」とブログに書いたと思いますが

しかしその後も読むということはできなくて

ラマナちゃんの世界観に浸るという感覚でしかできませんでした


昨夜、どうやって、なぜ?このサイトに行ったのかは分からないのですが

ラマナ・マハルシの教え

これを読んだんですね

あ~、わかる

わかります

有難うございます・・・

という、こんな感じになりました

ラマナちゃんの教えは(著書)は沢山ありますけど

このサイトで伝えている、これだけで十分ではないかと思いました

そして

あ~、わかる

わかります

有難うございます


このサイトを読んで、どうですか?

理解できますか?

理解したいと思いますか?

わかる!!という、知覚はあるでしょうか?

わかりたい!と思いますか?

であれば、順調であるし、素晴らしいと思います


本を読んで理解するというのではなく

腑に落とされているという感覚

それは、これまでの体験による実感、認識がそうさせています

意識がそこに置かれているというような感じですね

頭で理解しても、どうにもならないもどかしさが続くのが

探求というものなのだと思いますが

それは体験と実感がないからだと思います

体験がないのは、体験に気づいていないからだとも言えます


知識ばかりに気持ちが向いている

誰が? それは心(想念)ですよね


その心に気づく、そうして「私は誰か?」と問う

それは心(想念)だと完全に認識している


それができるのは

自分自身を知っているからです

「在る」をわかっているから

それが自分自身であるからなのです


この状態では

自分は肉体ではない

心ではないと、正しい認識ができます


そうなると、どうなるのかというと

苦しむ誰かはいないのです

悲しむ誰かはいないのです

なので表面的に苦しとか悲しいとかが現れていても

もうそれを、自分事とすることはできません

そして最近のブログでは毎回書かれているかもしれませんが


「在る」「自分自身」が何なのかという事に関しては

これだけは誰にもわかることはできません

なぜなら、それが自分自身であり

そして個人ではないからです

全体なのです


運命と自由意志のところの下段より



運命を克服する方法は二つしかありません。

一つは誰にとってこの運命があるのかと探究し、

束縛されているのは真我ではなく自我だけであり、

自我は存在しないということを発見することです。


もう一つの方法は、自分の無力さを悟り、

常に「『私』は存在しません、ただあなただけです。

ああ、主よ」と言い、

「私」と「私のもの」という感覚を放棄して神の望むままにすべてをゆだね、

完全に明け渡すことによって自我を殺すことです。


真我実現の道であれバクティの道であれ、

運命を克服するには自我を完全に消し去ることが必要なのです。



二つの道のどっちを歩んでいるのか

正直わかりません

どっちとも

のような気もします・・・

でもバクティのように○○しなさいというような感覚ではなく

自らがそうしたくてそうしている

ということが起こっています


ただ、神と共に

神の御心のままに…


※文中に「殺す」という言葉が出てきます

これは、この肉体が私だ!

この肉体が命だ!と思っている人にとっては

とても不快に感じるかもしれません

しかし、ラマナちゃんは聖者であり覚者です

この肉体は完全に自分ではないし

あなたも肉体ではないし、心でもない

肉体の死はあっても、私たちは生まれていないし

死にもしないとわかっています

そういう聖者、覚者にとって「殺す」という言葉は

単なる言葉遊びにしかならないのですね

現在においては覚者であっても「殺す」という言葉は

あまり使われないのではないかと思います



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