神さま

イエスが聖霊となった日

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Christmas一色

昨夜、まみともさんの「まんま実践講座」を受講した後

そのまんまを実践していく集まり“ジッセンジャー”の

オンラインクリスマス会がありました~

とっても楽しい会でした

そこでね、最後にまみともさんのお話の中で

Christmasというのはイエスの誕生日ではなくて・・・という話しで

人間であったイエスが聖霊になった日である

というお話をされていました

とっても嬉しい、なんとも言えない感覚に浸りましたよ


それで思い出したんですが

以前のソミソララは

よく、高次元といわれる存在たちとの交流があったんですね

これ、いまだからこのような「交流」という言葉が自然と湧いてくるんですが

以前は「繋がる」とか、「来て下さった」という言葉を使っていたと思います

おそらくスピリチュアル界隈では、このような表現になるのだと思います

つまり、高次元の存在と、私、という対象があるわけですね

そして高次元の存在と、私、に距離があるということですね

自分を物体だと思っているから

高次元の存在にも姿かたちがあると捉えるわけです


しかし、いまのソミソララから湧いてくる言葉は

交流という言葉です

ひとつの中でエネルギー的な交わり・・・


このブログで何度も書いている

アメージングストーリー神の小屋よりという映画の中で

主人公の男性が、三位一体を目の前にして

誰が神なの?って聞くんですよ

すると三人とも同時にと答えるんですね

創造主、イエス、精霊

これは、本当に素敵な映画の場面だなと思っていて

クスっと笑いが込み上げるシーンです♡


そう、スピリチュアルの時に

※このブログで“スピリチュアル”という言葉を使うとき

それは目に見えない世界、目に見えない存在、目に見えない神の国

そして精神世界の色々を指しています


ソミソララはスピリチュアルからちょうど離れて行く手前辺りで

これまで交流してきた高次元の存在たちすべてが神としか捉えられなくなりました

一番印象に残っているのが

そう、イエス・キリストでした

どうみても、どう感じても

神、としか捉えられなくなったのです

当時はどういうことだろう???とびっくりして困惑したものでした


しかし、いま思えばそれもそのはず

実際、神とひとつなのです

そしてね、聖霊

本当の私たちという言葉を使うのなら

聖霊は正気の私たち、神の中身そのものです

私たちが聖霊なのですよ

これは、個人的な私たちではありません

強いていうなら

想い、とか念のすべてが消えている状態

一瞬、一瞬が新しいピュアなあなた


だから、ほら

神は何も知らない、でも何も知らないわけではない

という言葉

これって、そういうことです

神は何かを想わないのです

神はなんにも掴まないのです

想いとか、念とか、一切ないのです

だから何からも影響を受けません

だから、永遠なんですよ


その状態に戻っていくスピリチュアリティ(変容)こそが

正しい探求のあり方であるべきだと思います

それはどんな状態かというと

軽い

ってことです


それだもの、私たちは

ちゃんと心を知って、心を感じて、心が消えていくまでをわかっている必要があるのです

でないと、心のままその想いがあり続けるでしょ

ふと、思い出すでしょ

そして悲しくなったりするでしょ

その必要はないのです

だって、無いんだから


例えばキッチンで今日の晩御飯を作っているとき

それが一時間だとする

その一時間はお料理に意識が向いていますよね

で、お料理が食卓に並べられて家族が席に着くと

もう、その状態(お料理を作っていた一時間)は無いでしょ

どこにもその状態は無いはずです


ひとつの状態があり

それがまるごと終わり、次の状態へ

次の状態があったら、もう前の状態は何も残っていないのです


それほど、それほどあっけらかんとしているんですよ

それが当たり前になると、どうなります?

軽いでしょ

何も掴めないんだから

残っていないのだから

それを幻想の私(心)は想いの力で掴んで放さないのです

だから重たいのです

いつも頭の中では「いま」以外のことでいっぱいなんです


嬉しいことも、悲しいことも

その状態は起こる、そして終わる

次の状態になると、もう何も残っていませんよ

それこそ線香が最後に消失するように・・・


神だけが実在である

神へと還るまで、神への想いだけが続いていく

神を愛と表現するのなら、私たちも愛そのもの

愛を神と表現するのなら、私たちは神の中身だということです











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