
モノクロの画像に
自分の好きな色を加えイメージしている
この薔薇はきっと濃い赤と薄いピンクとそれから・・・
とっても素敵♡というふうに
でも違う日にこの薔薇の画像を見た時には
全然違う色をイメージするかもしれない
心の投影
あの時はとても素敵な薔薇の画像だと心に映ったけれど
今日はさみしく感じて見ていられない・・・
というように
しかし違う日には
このまま、あるがままにこの薔薇の画像を見ている
意味を持たせないで、イメージしないで
ただ見ている
感想がないから反応もない
無・・・
自分が何なのかをハッキリさせたくて悶々としながら
私という個人的が薄れていく過程
始めは頭での理解から
そして実感するようになる
それが続いていくと
ある時から自分が何なのかを知りたくなる
私はいないと言いながら
自分が何なのかを知っていなければ気がすまないという感じ
このエネルギー的な微妙な反応が一年くらい続き
やっと、そこを終えたように感じています
大阪でのリトリートから「在る」という感覚が普段の生活の中でも感じられるようになり
夜中にトイレに起きた時も
朝の目覚めでも
日中の色々なシチュエーションでも
「在る」がずっと続いているという感覚
これに気づく少し前に
ヘルメスさんの個人セッションを予約して
そして個人セッションの日には
悶々とした感覚が終わっていた
そしてセッション
自分が何なのかを知らなくてもいい
この一言で 納得!
そうか、知らなくてもいいのか・・・
目を閉じて静かにしている時
「在る」を感じている時
あなたはその状態をもって
私は何(なに)だって言える?
・・・・・・ 「言えません」
言えない! それでいいの
自分は何だって、言わなきゃないの?
「いいえ、そんなことありません」
私は何だと言う必要はないの
私は自分が何で存在しているのかを知らない
でも、知る必要があるのかと言ったらどう?
「ないかもしれません・・・」
自分自身で納得した
自分がこう、こう、こうで、こういうものだと決めた途端
ぎゅーッと収縮した感じになる
それを自分としていかなければならないから
でも、私たちは自分を知る必要はないし
知ることなどできないのだということ
だって、私という個人はいないのですから
中心がないのですね
全体しかないのですね
自分は真我だ
と言葉にした途端に
やはり ぎゅーっと収縮したエネルギーになる
真我とか、自我とか、神とか、全体とか
それは表現するために使う言葉であるだけであって
それに意味を持たせないほうがいい
知識は知らないよりも知っていた方がいい
けれども
知識はいつしか“気づき”の邪魔をするようになる
そしてゆくゆくは
これまで得た知識が手放されていく
この流れって多くの人が経験することなんでしょうね
中心がない
全体しかない
それぞれの変化変容があり
人と同じ目覚めはない
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