あなたがどこに居ようとも、「自分は在る」と覚えていなさい
この「自分は在る」という意識は、連続するものでなければならない
普通、あなたの意識は対象に向かう
あなたが私(自分は在る)を見ているとき
あなたの意識全体は矢のように私(自分は在る)に向かっている
あなた自身が私(自分は在る)に向かっている
自分を覚えているということは
あなたがふたつの矢を持たなければならないことを意味する
ひとつは私(自分は在る)を指し
もうひとつはあなた(個人的なあなた)を指している
ふたつの矢を持つことが、自分を覚えていることだ
Oshoがこんなことを教えてくれていました
まるで前回、前々回に書いたブログの
続きのような言葉の数々 びっくりです!
以前Oshoにハマった時期があり、来る日も来る日も本を読んでいました
この言葉はきっとその時にも目にしていたのだと思います
でも、いまは全然違う感覚でこれを読んでびっくりしています!
だから、ハートに沈まなければならないんですね
海と船とこの意識と
海が神、真我
船がハート(自分自身)
この意識(自分が何なのかを知らない)
普段、私たちは「私という心」を自分だと思い込んでいますから
勝手に矢は「心の投影の世界」に向き続けていますよね
それをストーリーと言ったりしています
だからほとんどの人は「自分は在る」である!という矢は持っていませんね
意識しないから
でも、それでも私たちは全員もれなく「自分は在る」なんです
この命そのもの、存在そのものが自分自身なのです
心は、思考は、身体は私ではありません
↑
自分自身ではない矢を持っています
自分自身でハートに矢を向けて(意識の焦点)
あとはこの意識が勝手にやってくれると思います
常に常に自分は在るであることを意識する
忘れてもまた思い出す
心に意識が持っていかれても
また焦点を自分は在るに戻す
この繰り返し
どこに居ようとも「自分は在る」と覚えていること
「自分は在る」という意識は連続するものでなければならない
だから繰り返し繰り返し意識を向けて、慣れていかなければならない
自分は在るとは真我のこと
あなたは
真我とあなた ふたつの矢を持つということ
これってとても努力がいること
それは難しいだろう
非常に困難だろう
最初のうちは忘れてばかりいるだろう
光り輝く感じがするのは一瞬で
すぐにまた失われる
しかし憂つになることはない
たとえ一瞬でも大きい
続けなさい
再び思い起こせたら、またその糸をたぐりよせるがいい
忘れたとしても、心配することはない
また思い出して、またその糸をたぐればいい
すると、徐々にその途切れは小さくなる
中断がなくなって行き、連続性が生まれる
そして、意識が連続性を持つときには
あなたはマインド(頭)を使う必要がなくなる
・・・・・・・・・・・・・
自分は在る、私は在る、在る、実在、純粋意識、気づき。。。
真我を表現する言葉は沢山ありますね
言葉は言葉
では真我とは?
真我とはとにかく沈黙です、静寂です
どんな考えもどんな想いもコントロールも判断もありません
そして絶対的な不動です
この不動さは
以前全然眠れなくなった時期があったんですが
その時、真我の不動をみました
見ました、聴きました、感じました、気づきました、わかりました
この全部の言葉がそれに(真我の不動をみましたに)相当します
思考や心は次々と消えていき忘れるのに
こういうことは絶対に忘れません
忘れないものなのです
そして真我とは
そこに触れていくと
ハートはじんじん
例え一瞬であっても、それは安らぎ、平安ですね
おーっとっと!!
勘違いしちゃいけねぇーよっ 笑
こっちが自分自身だよ
安らぎ、平安
こっちが本当の自分だよ
ハートがじんじんは
自分自身の愛の表現だよ
自分自身をもっと知りたいなら
自分自身で向かっていくしかないんだよ
だから
船に乗ろう…
なんだよ
ソミソ・ララは探求の道すがらで
自分自身がなんなのかが分からなくなって悶々とすることがあって
それは真我を自分で捉えることができないからなんですね
これが私よぉ~~~ って
スピリチュアルの時にはこのアイデンティティを自分だと思っていましたから
これが私よぉ~~~ってわかったわけじゃないですか
でも、真我に関しては無理なんです
これは完全に掴めない、わからない、喋らない、沈黙の存在だからです
そして、それこそが自分だ!!ってなると
眼球は自分の眼球を見ることができない
という、この比喩そのものなんですね
考えてみるとこの悶々とするという感覚を
これまでにも何度か道すがらで通って来たように思いますが
だんだんと立ち直りが早くなってくるというのか
いい加減、わかってきているんでしょうね
で、今回このブログ三部作を書き終え
腑に落とすことができたように思います
このブログに立ち寄った人は、きっと同じような道すがらなのかもしれません
結局のところ
「私」という個人はいませんので
身体、心、思考も含めて全部自分ではありません
だからこれまではっきりと認識していた自分がいないとわかってしまうと
不安になったり、悶々とするのは当然のことなんです
始めはそんなこと思わなかったとしても(ソミソ・ララもそうでした)
道すがらのどこかで同じような想いが湧いてくるはずなんです
そういったとき
このブログ三部作を読んでみてください
ソミソ・ララの感覚では
スピリチュアルでは個人の私を愛しなさい
ノンデュアリティでは個人の私はいないよ!全体しかないよ
真我実現においては真我(自分自身)を愛しなさい
これは神の私たちである“意識”の神秘の流れなんですね
究極は海へと還りますから
(もともと海に、神の中にいますから)
真我を愛するではなくて
愛だけになるというわけですね
終わりだけは知っている
ふぅ・・・っと ため息
こぼれるよね
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