本当の自分に目醒める

ただ湧いてきた独り言。。。

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いつものように、小説を読むようにして読んでみて♡


世の中には、あまりにも沢山の癒しがあります

どれを選んで、どれをやっていくことが正しいのかわからない

だから気の向くままにそれを選んでやってみる

その時には楽になったような気がするんだけれど

気づけば、いつもの悶々としたスッキリしない心が続いている


あなたは知らない

心とは心であるということを

あなたは知らない

感情とは感情であるということを

あなたは知らない

身体とは身体であるということを

もっと細かく言うと

手は手、足は足、お腹はお腹、顔は顔、首は首

身体ぜんぶを一つひとつの存在として見てごらん

ぜんぜん、自分じゃないから

心は心、感情は感情、身体は身体


じゃあ、自分は?私ってなに?


意識とはなんだろ?

医学的に測れる意識ではないよ

測定できないもの、つまり神の領域の意識のことだよ


素敵な人を見て意識する♡

の、意識ではないよ

意識不明の意識ではないよ


意識不明になっても冷静沈着に在る

どっしりと変わらず変化せずに在る


これは“在る”そのものである意識

神、真我の領域

神、真我そのもの


私たちは意識

この意識は何かというと

心が心であることに気づくことができる

心が今何を思っているのかに気づくことができる意識


感情が感情であることに気づくことができる

激しい感情に気づき冷静にそれを見ることができる意識


思考がただの思考なのだと気づくことができる

次々と頭の中に流れる思考がただの思考なのだと気づくことができる意識

身体は身体さんなんだとわかることができる

頭が痛い、でも私は頭ではないとわかることができて冷静にそれを見ることができる意識

すべての心はみんな同じ心であるとわかることができる

私の心とあなたの心は同じもの、私はあなた、あなたは私だとわかることができる意識

私たちは

本当は何からも影響を受けることはない


神、真我と

私たちの意識は同じもの

だから気づきに気づくことができる

神の中に私たちは在るのだから

私たちは真我、真我は私たちなのだから


以前書いたこのブログ



思考は絶対に物事をそのまま見ることができない

なぜなら思考が見るのは

初めのバンっ!ではないから

純粋意識の領域での気づきの後に

思考はそれに判断を加えてあーでもない、こーでもないと始まる

一日に約6万回も思考していると言われる、この思考を自分とすることは

純粋な意識を無視し、常に知識や概念や言葉や判断、ジャッジ、好き嫌い、善悪などなどを

どんどん乗せて、それを認識する自我を自分とすること

勿論、1回目のバンっ!でありたい

それが真我を実現するということだから


身体があるうち、私たちは2回目のバンっ!を選ぶことができる

それを選ぶのは正しい心

正しい心とは真理を知る者の心

知識としてだけではなく、それを真実としている者の心


イエスはこのように言ったそうです

悟り、目覚めとは変化ではなく

正しい認識のことである

と。。。


自我は思考であり、心であり、感情であり、この身体も自分


でも身体は自分ではない

心は自分ではない

私、というもののアイデンティティも自分ではない


するとどうなる?

それこそが

誰かを意識する意識ではない

医学的に科学的に測定ができない意識


これが真我というもの

真我は個人ではない、真我はすべての全てに満ち満ちている気づきそのもの


こうやって書いて見ると、どうしても自分と真我のふたつが存在しているように感じる

自我の見せるトリックは何重にもなっていて

真理を語ったりもしますし

あり得ないイマジネーションの世界を見せたりね

本当に凄いよ、自我って

これまで何十年もそれを自分として来たんだから

それを終わらせることは神のみぞ知るというところだね



当たり前のことだけど自分自身というのは絶対にふたつない!ということ

ひとつしかないのだ!ということ


するとどっちが自分なの?

判断を加える思考(自我)が自分なの?

判断を加えない最初のバンっ!気づきそのものが自分なの?


昨日の朝、4時過ぎに

頭の中で思考(自我)がなんか喋っていて

うとうとしながらそれを聞きいていて

それがあまりにも馬鹿馬鹿しくて

(内容はすぐ忘れたけど)

しかし、いったいこのシステムは何なんだ?と

昨日の早朝に、ソミソ・ララは大笑いと同時に目を覚ました

超ショートバージョンの一瞥です 笑


“私とは”思考です!これが自我なんですね

皆さま、“私”と思っているそれは思考ですよ


朝の目覚めの時は「意識と思考」にきちんと距離があるため

あり得ないような物語りを永遠と喋る思考に気づけます

もぉ、それがあまりにも馬鹿馬鹿しい!面白過ぎた!

(2回同じ事を繰り返し書いてます) 笑




私とは意識です

それも神の中で、いつも神に浸っているのが私です

それを知らないものだから

海の中を泳ぎながら海を探す魚のように探し続けるのですね

これ、真理でよく使われる比喩ですが

まさに、本当にそんな感じですね


ソミソ・ララの日常は

神、真我への想いから始まり

神、真我への想いで終わる

神、真我への最高の祈りとは沈黙であるというのに

なかなかじっと座って内側に入ることができないんですが、いつも想っています

そしてその時

自分自身にも同じ想いで過ごしています


ヘルメスさんの瞑想会で

自分の外に祈りの対象を持つことは真の祈りではない

祈りに対象はない、と…


だとすると、いったい誰に祈るの?

もう、わかりますよね



実相は隠されていないのに

※実相とはすべてのものの生滅変化する仮のすがたの奥にある真実のすがたのこと


こんなにもありありと実相は目の前に在るのに

それを現れているという表現は絶対にできない

なぜなら現れるものの前に既にあるから

それは永遠であるから

それは変化しないものであるから

それは人間の理解できない愛であるから


私たちはそれを毎日見ているというのに

現象にばかり気を取られて

思考を私だと思い込んでいるものだから気づけない


見たまんま、これが実相

掴めない、在るのにわからない、でも在ることがわかると

それが愛だとわかる

いつも愛の中に居ることがわかる

実相には姿かたちは無い、匂いとか感触とか声とか無い

在る

在るというのが実相


実相とは?

もう、わかるよね

“それ”は在る











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