神さま

私は在る

千勝神社桜2




爽やかな季節・・・

この森羅万象の現れは神の表現である!

私はそう思っています



~最近のSatokoの日常~

5月の初めに二人目の孫が生まれまして

母子ともに健康そのもの

可愛い男の子を授かりました♡

上の子“Cocoにゃんにゃん”はもうすぐ3歳

下の子は“いっちゅんちゅん”もうすぐ生後一か月になります

約一か月、Satokoのところでゆっくりしていましたが

昨日帰って行きました!!


私の日常は

森羅万象の静のまま穏やかで満たされております


私は想う

やっぱりね

神さまには動の側面があると思う

それが森羅万象

この、森羅万象は変化し続けていますが

実は目には見えないところでは

変化などしてはいないのです

どっしりと「ここに在る」です

いつも変わらずに・・・


変わらずにというのは、例えば四季折々であるとか

朝とか夜とか、そういう変化の部分を言っているのではなく

エネルギー的な部分の根源のことです

森羅万象は神さまの表現です

在るんです

いつも変わらずにここに在るんです


人は森羅万象を変化するもの

例えば世界の環境の変化によって起こる自然災害など

話し出すと様々な物語が湧いてくるでしょうが

神さまからしたら、そんなことには興味はなく


何も変わらぬ・・・

ただそうである・・・



これだけです


人が捉える変化は物語であり幻想の部分です

神が捉える静の変化はいつも変わらないのです

人の視点と、神の視点

物語とは「非実在」

ただ一なる絶対意識である神だけが「実在」です


私は想う




“絶対的な不動、変化のしようのない完全なるもの”


真我

“神のひとり子”


神にはひとりの子どもがいる

その子供はすべての真我

真我には分離はなく、すべての真我はひとつである

だから神の子どもは“ひとり”です

そのひとりとは、私であり、あなたです

あなたと私は同じものです

この、同じものすべてで神です


それを人の視点で(思考で)理解しようとすると

個から始まります

私とあなた

というように

でも、神さまからしたらそんな分離はないのです

空にも空間にもすべてに満ち満ちているこの命

この命からすると

全部が初めからひとつ



前回のブログで

「“それ”は在る」の著者であるヘルメス・Jシャンブさんの個人セッションを受けましたと

お知らせしましたが

その後5月から、ヘルメスさんの瞑想会に参加しています

これは、瞑想会という名の付くものですので

参加するという表現になりますが

ヘルメスさんが説く、お話しされる内容そのものが瞑想なので

私たち参加者はヘルメスさんのお顔を見ながらお話を聴き

感じ、気づき

瞑想状態に入っています

私などは、もう心地よすぎてこのまま寝てしまいたくなる

宇宙の真空の中に入っているような

そんな感覚になります


私たちは気づき


ヘルメスさんは言います


私たちは気づきであると



ヘルメスさんが薦めてくれる本を二冊購入しました

ヨーガ・ヴァーシシュタ~至高の真我



アシュターヴァクラ・ギーター~真我の輝き

です

アシュターヴァクラ・ギーターは薄い本で

神の(真我の)詩ですね

本を開いた瞬間からハマっています

神を感じています・・・

これから読み進めてまいりますが

実際、本の内容を覚えることはできませんね

もう一瞬一瞬が終わって消えていきますので

その時、一瞬の気づきだけが起こります

この気づきは部屋中に広がっており

気づきの中に自分が居るようなそんな感覚になります

いいえ

部屋の中を超えて

全体ですね

全体に気づきが拡がっています

素晴らしい



ところで、前回書いたブログでは

Satokoは動揺しまくっていましたね

自我のラスボスなるものに揺さぶられ恐怖さえ感じていました


もう、そこは抜けて

いまの私はSatokoという個とは分離したような感覚の中に在ります

この身体を自分とは思えません

勿論、快、不快を感じますし

五感を捉えますが

それを自分であるとは思えなくなってしまいました


だからと言って真理の視点での目覚め、悟り、覚醒が

起こったというものではありません

そういったものからは興味が薄れてきており

森羅万象から神さまのことを想うことが増えており

真我のことをハートで捉え、感じることが多くなっております



元々スピリチュアルな側面での覚醒を繰り返してきておりますので

スピリチュアルな側面での覚醒とは

サイキック能力の部分ですね

はい!相変わらずです

しかし、そういった側面での現象は

いまの私には2つのレベルに分かれており

普段感じる日常での現象が

より実在と近い状態であり、ただ心地よい

スピリチュアルな現象はこってこての非実在

こんな感じでしょうか( ◠‿◠ )

そして不思議は不思議ではなくなっています

勿論、面白いことは沢山ありますし

違和感も沢山湧いて来るわけですが

それらを“自分に”起こっている事であるとは思っていません


私には姿も形もありませんが

私はただ

一なる絶対意識

絶対意識である神の意識で(神さまのほんのちょっと意識で)

神を、真我を想い、見つめております♡

そんな 私は在る♡♡♡ いまここに


またまた ちんぷんかんぷんですね







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