真我

真実に成ることを求めているのだから・・・

桜薄い



神さま、真我は、宇宙に満ち満ちているのに

何ものにも関わらず影響を与えていない

神さま、真我が影響を与えるたったひとつのもの

それは意識

それは神の意識


神さま、真我はいったいどんな方法で意識に影響を与えるのかというと

始めは外から、この世界で信じられている神々や仏様を通じて影響を与える

そしてゆくゆくは内側へと意識を向かわせていき

ゆっくりとゆっくりと意識の変化変容は続いていく


私たちは一なる絶対意識である唯一の神のほんのちょっと意識である

この意識にのみ、神さま、真我は影響を与える

すべての現象は意識を通して現象化される

神さま、真我は

意識がこの現象世界を観察者(自我)として没入し

これは違う、これは違うと明らかになっていきながら

観照者、つまりこの世界への没入が止み観照するようになる事で「在る」に気づく

そして「在る」に落ち着いていくまでの意識の変化変容に影響を与える

(これは“この意識”が理解しているところです)



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意識は

本当の私、「在る」が浮上してくることに長年蓋をしているらしい

この意識は「在る」が浮上して来ることを待っているのに

蓋をして邪魔をしていたというジレンマ

なんて、なんて不思議なことだ・・・ 笑

探究者たちは皆、真剣にそれと向き合っていく


ラマナ・マハルシとの対話 第1巻

1936年3月2日の対話にて

「瞑想と真我探求の違いはなんでしょうか?」


「瞑想は自我を保たなければできません

そこには自我と瞑想との対話があります

この方法は間接的なものです

一方、真我はただ一つです

自我を見いだすこと、すなわちその源を探求することで

自我は消え去ります

その後に残ったもの、それが真我です

この方法は直接的なものです」



これは87年前に為された対話です

87年後のいま

ラマナ・マハルシの著書は数冊持っているものの

最後まで読み切った本は「あるがままに」と「ラマナ・マハルシとの対話第1巻」の二冊だけです

その後ニサルガダッタ・マハラジやラメッシ・バルセカールやプンジャジ

そしてOSHOへと意識が向いてしまって

一時期はずっと本を読んでいました

しかし、ある時、読んでも読んでもその時には没入していくんですが

何一つとして記憶されておらず

これはエネルギー的な変化をもたらしてくれるものなんだなと気づき

ある時から本を読むことがストップしてしまいました

でも、時々それらのエネルギーに触れたくなって

寝る前に枕元で本を開いたりしています


スピリチュアルでの霊性

個人的がなくなり全体へとシフト

「真我を実現」すること

そして最終的な究極の真実である一なる絶対意識「神さま」を

探求の前から知っていたということに気づいている“この意識”です


“この意識”は

「在る」、この不動なるものを探求していくことを自然な流れで受け容れている

「在る」に気づいている“この意識”は真我を実現するにあたって一番重要な役割を担っている

そしてこの意識はゆくゆく消えていく運命なのだと思う

元々姿かたちなきエネルギーであるこの意識、純粋意識、絶対意識

元々これらはひとつのエネルギーであり

元々これしかなかったのだ!!ということになるらしい

なるらしいと言っても

それはずっと知っている

なぜかわかっている“この意識”です


終わりを知ってもなおかつ探求は続いていく

そう、求めているのは知ることではなく

真実に成ることを求めているのだから・・・




 
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