先々週の金曜日から娘たちが鹿児島に遊びに来て
月曜日に帰って行ったんですが
いっぱい遊んで、いっぱい食べて
そのせいか、月曜日の夜から寒気がして
次の日には高熱がでていました
39度・・
こんな時でも頭の中はうるさく、いやっむしろいつもよりうるさく
睡眠はとれていない
取れていないけど“からだはちゃんと休んでいる”
相変わらず、これでした
不思議だよねー 笑
目覚め、悟り、非二元、真理、真我実現に興味がある人は
私はいる→私はいない→私は在る
この3つの段階を超えていくのかな
この、私はいないというのが明らかになると
あとは全体しか残らないわけですね
ですから即全体に移行しますよね
だって、私がいないだけでは宙ぶらりんですもんね
私がいないというのは、この世界からSatokoが消えるのではなくて
意識の中で個人的が消えるということですからね
勘違いしちゃ駄目ですよ
個人的が消えるということは
私の夢とか、私の願望とか、そういうものの意味さえも掴めなくなるはずです
えっ?なんのこと? みたいに
で、幸せとか、なんとか
これに関して言えば
私が幸せそのものの正体なんですね
だから、幸せを考えてもわかるはずがないんです
自分が“それ”だからです
私が伝えている全体は
現代ノンデュアリティのスピーカーさんたちが伝えているものとは
ある意味異なり、ある意味同じです
真我が全体ですから
全体と「ひとり一宇宙」はひとつとして同じ現れになるはずです
同じ現れとは
例えば波動と言えばわかり易いでしょうか
例えば全体は無条件の愛で満たされており、自由であり、楽ちんであり、きらきらです
この状態がそのまま私の「ひとり一宇宙」に現象として現れるということです
それは別に特別な何かではなくて
私たちの意識が
目の前に現れる現象に対して
無条件の愛に満たされており、自由であり、楽ちんであり、きらきらして捉えるようになる
ということなのです
そうなったら、間違いなく真我を実現しています
なぜなら、体験そのものが真我であるからです
体験のみが、その住み家に静かに座す
というOshoが本の中で伝えている言葉がありますが
まさに、体験そのものが真我なのです
体験、体験といっても、ジェットコースターに乗る体験というのではないですよ
いまここに現れている「ひとり一宇宙」目の前の現象そのものが真我である
ということなのです
どちらにしても、私たちはいつかは個人的をゆるめて行くことになります
時代が、地球の在り方が、そのように変わっていくからです
そうならざるを得なくなっていくからです
目を覚ます人が増えると
一般的を重んじるというこれまでのあたり前から
実はずっと前からこうだったという
一般的を大きく包み込む大いなる力があることに気づいていきます
大いなる神が、真我が、一般的を包み込んでいる
この世界は一般的から
全体を重んじる
大いなる全体的が当たり前になります
全体
この意味はそれぞれが、それぞれで探求していくと良いです
私はいる→個人的
私はいない→私がいないなら私は全体
私は在る→私は真我
私は元々真我なのだから、真我に気づくことはないのです
私の方から真我に沈んでいくしかないのです
同じであるのに、真我に気づくはずがありません
体験として、現象として、何らかの現れがあっても(私の場合これですね)
それが真我なのではありません
真我だと気づくことができるというだけです
私が“それ”なんですから、姿かたちとして、声として真我を捉えることなど
できるはずがありません
そうそう、これを書きながら思い出しましたが
高熱でうなされているとき(うなされるまではいかなかったかな)
どちらにしても、そのとき
ハートから声が聴こえたんですね
この体験は、もう3度、4度体験しています
今回は今までで一番大きな声でした
はっきりと聴こえました
なんて言った?
うん
「の」って・・・ 笑
「の」?
いやっ 「あ」だったかも?
急に聴こえて来るし、こんな感じだからなんて言ったかは
正直覚えていないのですが
多分 「の」だったかと・・・
この声はもちろん、私です!私の声なのです
私から私が抜け落ちた声です
透き通った声
言葉にするのなら
聖なる声
こうなると思います
私はその声にすぐに反応して
その意味するところに気づき
あっ!!私はこのからだではない
苦しいのは私ではない
この気づきと共に、からだをただ見守る側になりました
真我が気づかせたんですね
私に戻って来なさい!と・・・
神さまの私たちというのは
神さまの中にいると、自分がどのような状態になっているのかに決して気づけません
だから、このような体験をしているとも言えると思います
神さまから離れてみることで、神さまを知ることができる
神さまから離れてみることで、神さまに還ることができる
同じことです
私はいるというのは、真我から離れてみた状態です
私はいないというのは、この自分は違うのか、私はいないのかという状態です
私は在るというのは、真我に還るということ
神さまと離れてみるという体験と同じことをしているんです
と言いますか同一です
以前、バンッ!バンッ!バンッ!true selfで行こう♪というタイトルでブログを書きましたが
これは最初のバンッ!への理解が少し違っていました
最初に意識に入って来る“これ”
バンッ!が真我そのものであるということです
先週、まだ熱が下がらない時
日中にソファーに座って休んでいました
こっちに来てすぐに購入した小さなソファーは
背の部分が低く、寄りかかると頭を上にして
休むことができます
無意識にそれをやっていたら
初めの段階で
目を閉じて口を空けて爆睡しているような状態があり
この状態には何の意味付けもなく、ただ気持ちいい、だったんですね
その気持ちいい~と感じている、気づいているのは私、真我の先っぽの
気づきの意識ですが
それ以前に、「気持ちいい」だけが、そこにあったんです
それが最初のバンッ!です
これが真我そのものです
わかりますか?
次に来るのが私、気づきの意識なのです
体験そのものが「真我」
それに気づく気づきの意識が「私」真我の先っぽ
私がいなければ真我は体験そのものとなって現れることはできません
私、気づきの意識があるから真我は体験そのものになり
私に気づかせるという、自作自演が成立するのです
いつも言っていますよね
私は真我の先っぽです
真我の先っぽは真我と同一です
そして
そのあとの3回目のバンッ!はすでに様々な意味づけが加わり
純粋意識とは無縁の状態ですので、どーでも良いです
最初のバンッ!です
これが、真我
目の前に現れる、一瞬一瞬の“それ”それすべてが真我です
だから、いまここしかないのです
最初のバンッ!です
今日書いたことを体験するには
私はいる→私はいない→私は在る
ここをやっていくしかありません
もともとの「私」を
「私、在る」が取り除いて行くというプロセスです
私の場合は、非二元にボンっと投げられましたから
古代の叡智である非二元の教えも、現代ノンデュアリティも
両方とも役に立ったと思います
ただ、知識として記憶はされませんが
エネルギー的に役にたったと言えるのかもしれません
私はいないにとどまることなく
人はその先へと行かなければなりません
その気づきや色々な事は
その人その人のプロセスの中で大いなる力の中で進んで行きます
悟ったとか、目覚めたとか、私はいないとかの
その先です
探求が終わっても密かに続いて行くプロセス
つまり、私は悟った、目を覚ましたと公言している人も
静かに続いていくプロセスがあるという事です
それでなければ
終わってしまうではありませんか
なにがって、神さまに近づいていくことに終わりがあるはずがないでしょ
このからだが終わるまで
終わらないのです
神さまと一緒にあるがままに
それは終わらないのです
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