Oshoは瞑想についてこのように語っています
瞑想とは
ただ現れていないものに波長を合わせることだ
肉体はそこにあり
あなたはそれを見ることができる
マインドはそこにあり
あなたはそれも見ることができる
眼を閉じれば
あらゆる活動をしている
あらゆる働きをしているマインドが見える
思考が通り過ぎてゆく
欲望が起こってくる
記憶が浮かびあがってくる
そこにはマインドのすべての活動があり
“あなたは”それを見守っていくことができる
ひとつ確かなのは
“見守る人はマインドではない”ということだ
“マインドの活動に意識的になっているもの”
それはマインドの一部ではない
見守る人は分離し
目撃者は分離している
この目撃者に気づくことが
本質的なもの、中心にあるもの
絶対的なもの、変わらないものを
見つけることだ
1 「あなたは」それを見守っていくことができるという部分
そして
2 「見守る人はマインドではない」という部分
3 「マインドの活動に意識的になっているもの」という部分
真我の先っぽ意識と
真我に完全に浸透するまでの意識の間は
レイヤーの意識になっていて
レイヤー?グラデーション?
どっちでもいいかぁ(๑>◡<๑)
これを私はコーヒーを使って熟成という考え方でブログに書いてきました
私たちは真我を探求する中で
このレイヤーの中を行ったり来たりしていると思います
体験というポイントがあれば、そこからあと戻りはしないと思います
でも体験がなく、知識だけでレイヤーを超えていくことは難しいのかもしれません
1、2、3、での意識の状態をイメージしてみて下さい
この意識の状態が真我の先っぽの意識です
自我と同一化している→魂から目覚め真我の先っぽに→真我を求めて探求する
体験と知識が気づきへと導き
ゆっくりゆっくり真我へと浸透していく(熟成していく)
Oshoは英知の辞典という本の中で
1、2、3、の状態を真我として捉えているのかもしれません
でも私はそうは思いません
真我は私たちのハートの奥にも
そして五感を通して気づくことができるリアリティの世界にも常に在り
それはどういう事かと言うと、ハートは愛を感じるセンサー
真我は私たちのハート、そしてリアリティに関係なくすべてに在る
ということです
真我は過去も未来も既に初めから見通しています
ですから、目撃者(真我)というのは
これから起こる事に対して目撃しているのではなくて
それらすべてを知っていながらただ眺めているだけです
そして私たち(自我でない真我の先っぽ)の意識の変化を楽しんでいるのです
エールを送っているのです♥
君だけのためのヒーロー~~~♪
真我⇔モナドは神そのものです。。。
この人生、起こっている事に対して深刻になる必要などありません
私たちはもっとのびのびと在って良いのです
18歳で成人になる!という初めての年を迎えた
成人式でのインタビューで
可愛らしい女の子?成人になったのだから女性と呼ぶべきかな
18歳の女性と呼ぼう♬
女性はインタビューの中で
これから世界には、どうなってほしいですか?
という質問に対して
「世界は幸せじゃないかもしれないけど、私は幸せ」
このように応えていました
世界は幸せじゃないかもしれないけど
“私”は幸せ…
私が幸せであれば、私の世界では“みんな”が幸せ
世界の事は世界に任せて
私は幸せ
みんな幸せ、ひとりひと宇宙
今日のブログもかなり、ちんぷんかんぷん♪
笑
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