非二元♡ノンデュアリティ

何も変わらない日常だけがある

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鹿児島に来てちょうど一週間…

ここへ来ての感想として
正直に白状すると

何も変わらない

何も変わらないということ


先週の水曜日
家からはバスで守谷駅まで15分ほどで到着
つくばエクスプレスで秋葉原まで約35分
秋葉原からは電車で羽田空港第一ターミナルまで直行
全部で1時間半くらいだったのかな

そして飛行機で約2時間で鹿児島空港に到着
今度は高速バスで約1時間、天文館で下車
そこから徒歩で約10分、夫が住み始めた部屋に到着  
全てが快適であった…


こうやってブログに書き始めると
どうやって茨城県からいまブログを書いている夫の部屋までやって来たのかというのが湧いて来るわけだけど

不思議なことに
鹿児島に来た〰〰〰とか
鹿児島って……とか
そういう感覚は湧いて来ない


それから
私はドラマを見ることが大好きなんだけど
前のように入り込んで見るという事ができなくなっている事に気づいた 


感動がなくなったわけではなくて
感動は”いまここ”で起こる”これ”という事なのだと思う


そうそう、それから、家ではニュースは見ないんだけど、こっちに来てからは夫が見るから目に入って来る


暗い内容が多いね


こんなのを真剣に見ていたら普通は気が滅入ってしまうんだろうと思うけど
やっぱりそこも入り込むことがなくて、情報は淡々と意識を通り過ぎていく


とにかく、一番強く感じる事は
過去を所有できなくなったということ


それは1分前であっても忘れている 笑


しかし、何も困らない
 

この状態をよくよく調べていくと
ここ、全体
全体に意識が在るということ


この現象の世界に影響を受けていないということ


ただ”いつものこれ”があるということ


これはきっと海外旅行での旅先でも
それこそ昨日書いたブログじゃないけど
宇宙旅行に行っても変わらないんだと思う
どこに行っても、どこに居ても
ここは、これは、何も変わらないんだと思う


私たちはひとりひと宇宙を体験していて
私が見ている世界と
あなたが見ている世界は全然違うのだということ
同じ景色を眺めていても
それは全然違って見える


なぜって
私たちは真我の先っぽだから
神さまのからだである”全体”から突き出して
ひとりひと宇宙を体験しているから

全体に還るということは
神さまの”からだ”として
ひとりひと宇宙を体験するということ

宇宙に(地球に)私が居るのではなくて
私の宇宙、私の地球を体験しているということ
それは
どこにいても誰と会っていても何を食べていても
ただ”在るのだ”ということ

いまここでの体験だけが実在としてあり
それを所有することはない
体験は”いまここ”だけにあり
いまここは、いまここ以外にはないから
1分前の事も所有はできないし所有する必要などない
記憶はただの記憶でしかない


ここで書いているブログは
いつの間にか
非二元の人たちと同じような内容が増えているという事に、私も気づいているのだけれど
実際、そうなのだから仕方ない


これはそうなってみると分かると思う
一番手っ取り早いのは
この身体は私ではないのだ!
私という個人は本当は存在していない!
私というのは、神さまのからだ(全体)であり
ただ全体に寛いでいれば良いのだということ


そのためには「私」という実態のないものを調べて行く必要があるんだと思う
私の場合は強制的に体験がやって来ちゃったから
調べるも何もなく気づいてしまったんだけど


本当の私とは?
私とはいったい何?
こんな事が気になり出したなら
それは、もう道の途中に居て
探究が始まっているんだと思うよ


だって、普通はそんな事考えないでしょう


本当の私とは? 
私とはいったい何なの?なんて事…


探究の道すがらへようこそ♪
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