気づき

獲得しない探求

おおたかの森


千葉県流山市おおたかの森の駅周辺にて

この日もすごく気持ちよかった♡

とにかく秋は空が美しいよね~~~

毎日のように車で通る道が

毎日新鮮で

毎日同じ言葉をつぶやく私

ん~ きれいだなぁ。。。



真理を探究している道すがらでは

「私」という自我意識に引き戻されたり

真我の純粋意識に近づいたり

純粋意識そのものに静かに留まるまでの熟成期間には

行ったり来たりしながらの探求が続いてるかのようです


しかし、これは私の主観でしかないのですが

探求とは何かを掴む、獲得するというようなものではなく

とにかく深く知りたい!もっと知りたい!

そして理解したい、阿吽の呼吸のようになりたい

これ!と言ったら、これだね!みたいに

あれ!と言ったら、あれだよね!みたいに


ただ、わかる、気づけること、それが嬉しい

そしてそれは知識ではないのだということ

気づけることへの歓び、これに尽きる


私の場合は神さまに向かって終わりなき旅路を愉しんでいますから

またひとつ見つけた♡というのが

或いは、以前にも気づいたことがあるのかもしれない気づきが

いま、新しい、気づきとなってその現象が現れて

以前とは違う、 でも同じ気づきであったり

まさに、今日のブログも

ちんぷんかんぷんだね 笑


私はいない

これはね、本当にそうなんですよ


Cocoちゃん(孫)を見ていて湧いてくる愛おしさ、可愛さ

それは

でも、それは私が愛しているという感覚か?というと少し違います

愛が、愛だけがここにある

こんな感じです

人間の愛には、条件が付いている場合が多いのかもしれません

特に恋愛に関しては

相性が合わないと知ると簡単に終わってしまうこともありますし

逆に、愛という感情が一変して依存や執着に変わることも


でも、全体性の愛というのには何の物語もないのです

愛だけがあるのです

それを無条件の愛といいます

物語がないということ

意味づけもないということ

ただ、愛だけがあるということ



この世界は幻想だ

これも、残念ながら本当です

ただ、一瞬一瞬目の前に現れる“それ”はリアル

でもそこに物語がくっ付いてくると、もうそれは幻想です


だって、物語は物語なんですよ

あなたの頭の中で展開している物語です


本当は目の前に現れる現象には何の意味もないのです

ただ、全体性から完璧なタイミングで全ては現れています

 “ひとつ” の言葉であってもです

すべては全体の中から現れているということです

私たちは全体性の中身

そこには個はない

会議室で行われている話し合いの最中に

全体を見回してみると

そこはただそれがあるだけ

自分が発言しなければならないときにはそこに集中して

発言が終わったら

また会議室の中の全体性に成りきってみる

そうすると気づく

ここにはただそれだけがあると

すべてはちゃんとなっている

一見おかしなことが起こっているように見えても

全体性に融けて全体を見回してみると

やっぱり、それはちゃんと起こっている

不思議なことに、そうだ


だから気楽にしていてください

怒りたかったら 怒るそのものになって怒ったらいい

笑いたかったら 笑そのものになって笑ったらいい

そこに意味も、物語もない

ただ、それは完璧に起きた

この感覚になるまでには

自我マインド→真我の先っぽ→真我

この熟成期間でゆっくりシフトしていくのだと実感しています




真我の先っぽ大


     ↑ ↑ ↑

このタオル一枚がまるっと真我(全体)

尖がっている先っぽは真我の中の私


つまり真我の先っぽはいまブログを書いているこの私です


真我の先っぽは尖がった先であるこの世界に没入・・・

尖がりの一番先である頭の部分が圧迫され自我を自分だと思い込んでいる

下の方に行くにつれて自我が薄れ真我の先っぽは目を覚ます

あ~これは私ではなかったのか!

えっ

身体も私ではない?

えーっ頭の中も私じゃないじゃん!!

なっ!なっ!なんてことだーっ


ある日、真我の先っぽは本当の自分に目覚める決心をする

いえっ !!

私の場合、このことに自由意志は無かったのですけどね

そして

探求が進むにつれて少しずつ尖がった部分である

自我と自分を同一化していた部分が

ゆる~っとしてきて


真我の先っぽ中

  ↑ ↑ ↑
多分現在の私はこんな感じです(#^.^#)


そしていつしかタオルは真っ平になり

真我の先っぽは真我へと沈むのかもしれません


真我の先っぽ消滅


涅槃、ニルヴァーナまでに至ったといわれる覚者、聖者の方々の状態は

間違いなく、真っ平ですね

真我の先っぽと真我の関係性は

真我へと熟成していく過程で思考やマインドといった自我に気づいていながらも

真我であり⇔真我の先っぽでありという状態で

あるがままを あるがままに 在るのではないかな~


わからないけど (*^。^*)


私はいまの段階でも、物語はどんどん崩壊していっています

いちいち物事に意味を付けないようになっているし

物語をくっつけた、その物語はどんどん崩壊してしまう

 “これ” しかないのだと


いま住んでいるところ、親しみ馴染んでいる風景は

どーゆーわけか

ひとつに融けているような感覚がしている

そしてそこに 私はいない

でも私はそこにちゃんと入っている、付属している、一員になっている


でも、私はいない

私は意識だからね


私達には本当は姿も形もないんだよ

全体なんだよ

全体性の中身なんだよ

この身体が終わるとね

意識する対象がないため、意識する必要がないため

意識できなくなり

意識は消えるんだよ

意識は全体そのものとなるんだよ

みんなひとつさ

分離? 笑っちゃうよ

どーやって分離するんだよ

どんなに強い分離感を体験していても

それは体験だ

体験だけがそこで起こっている

それは私達ではない



(*^▽^*)












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